ざるごのブログ

京大タテカンに放火事件発生!立て看板規制は違憲なのか?【表現の自由と最高裁判例】

投稿日時: 2023/03/08 17:11

最終更新日時: 2023/03/08 17:11

京都大学では、伝統的に、大学の正面に学生が作った立て看板が置かれている。

しかし、最近では、そうしたタテカンを取り除こうといった動きがある。

京大正門前や、百万遍の交差点には、旧来学生が多くの立て看板を設置していた。

しかし、京都大学は、2017年12月19日付に、京都大学立看板規定(以下、京大立て看板規程)を制定し、大学が指定した場所以外に立て看板を設置してはならないとした。

(この指定場所には、これまで多くの立て看板が置かれていた正門前や百万遍交差点は含まれていない。)

 この京大立て看板規程は、「京都市屋外広告物等に関する条例」(以下、広告条例)に基づき、京都市から大学当局が文書による指導を受けたことによって制定されたとのことである。

京大立て看板規程が制定されて以来、大学当局が「強制撤去」を行っては、学生が新たなタテカンを設置するというイタチごっこが続いている。

さて、京大立て看板規程については、一部で非常に強い反発がある。

京都大学職員組合による声明では、

などを上げ、強く反発している。

さて、ここでは、一つ目の、広告条例による規制が表現の自由を侵害する可能性についてより詳しく考えてみよう。

この問題を考えるにあたって外せないのが、1980年の大分県屋外広告物条例事件だ。

この事件は、大分県内の歩道上の街路樹に日本共産党のポスターを針金でくくりつけたところ、大分県屋外広告物条例に基づいて設置者が警察から逮捕された、という事件である。

大分簡易裁判所による一審判決では、被告人には罰金1万円の有罪判決が課されたが、被告人はこれを不服とし、控訴した。

福岡高等裁判所での控訴審でも、控訴は棄却されたが、被告人はさらに上告を行い、裁判は最高裁判所まで争うこととなった。

その最高裁判決の判決文が以下である。

大分県屋外広告物条例事件 上告審

判決では、本事件での広告規制は違憲ではないとし、第一審の有罪判決が適用されることとなった。

しかしながら、裁判官伊藤正己は、「政治的な情報の伝達の自由という憲法の保障する表現の自由の核心を占める」ものに関する重要な問題を含むものであるとし、判決に当たって補足意見を添えた。

本条例の規制の対象となる屋外広告物には、政治的な意見や情報を伝えるビラ、ポスター等が含まれることは明らかであるが、これらのものを公衆の眼にふれやすい場所、物件に掲出することは、極めて容易に意見や情報を他人に伝達する効果をあげうる方法であり、さらに街頭等におけるビラ配布のような方法に比して、永続的に広範囲の人に伝えることのできる点では有効性にまさり、かつそのための費用が低廉であつて、とくに経済的に恵まれない者にとつて簡便で効果的な表現伝達方法であるといわなければならない。このことは、商業広告のような営利的な情報の伝達についてもいえることであるが、とくに思想や意見の表示のような表現の自由の核心をなす表現についてそういえる。簡便で有効なだけに、これらを放置するときには、美観風致を害する情況を生じやすいことはたしかである。しかし、このようなビラやポスターを貼付するに適当な場所や物件は、道路、公園等とは性格を異にするものではあるが、私のいうパブリツク・フオーラム(昭和59年(あ)第206号同年12月18日第三小法廷判決・刑集38巻12号3026頁における私の補足意見参照)たる性質を帯びるものともいうことができる。そうとすれば、とくに思想や意見にかかわる表現の規制となるときには、美観風致の維持という公共の福祉に適合する目的をもつ規制であるというのみで、たやすく合憲であると判断するのは速断にすぎるものと思われる。

パブリツク・フオーラムというのは、一般公衆が自由に出入りする場所で、本来の利用目的以外に表現の場として役に立つ場所のことで、道路や公園等が例として挙げられる。

パブリツク・フオーラムでは、所有権や、本来の利用目的のための管理権に基づく制約を受けざるを得ない状況においても、表現の自由が可能な限り尊重される必要があると考えられている。

伊藤裁判官は、ポスターの設置場所もこうしたパブリツク・フオーラムの性質を帯びるものであるとし、景観の維持という公共の福祉に適合する目的があるからといって、ただちに合憲であると判断することはできないと述べている。

しかしながら、本件に関しては、景観を著しく乱しているということから、景観の維持を目的に規制することは合憲であるとされた。

しかしながら、本件において、被告人は、政党の演説会開催の告知宣伝を内容とするポスター2枚を掲出したものであるが、記録によると、本件ポスターの掲出された場所は、大分市東津留商店街の中心にある街路樹(その支柱も街路樹に付随するものとしてこれと同視してよいであろう。)であり、街の景観の一部を構成していて、美観風致の維持の観点から要保護性の強い物件であること、本件ポスターは、縦約60センチメートル、横約42センチメートルのポスターをベニヤ板に貼付して角材に釘付けしたいわゆるプラカード式ポスターであつて、それが掲出された街路樹に比べて不釣合いに大きくて人目につきやすく、周囲の環境と調和し難いものであること、本件現場付近の街路樹には同一のポスターが数多く掲出されているが、被告人の本件所為はその一環としてなされたものであることが認められ、以上の事実関係の下においては、前述のような考慮を払つたとしても、被告人の本件所為の可罰性を認めた原判決の結論は是認できないものではない。したがつて、本件の上告棄却の結論はやむをえないものと思われる。

京都大学の立て看板の問題においても、大学生を含めた多くの人が行きかう百万遍の交差点などは、パブリツク・フオーラムの性質を有する可能性がある。

そうした中で、立て看板を規制することが表現の自由への制限に当たるかどうかは、議論の余地が残されていると思われる。

ここから先は、司法の専門家ではない私にとっては知る由もないところであるが、もし裁判になったらどういう判断になるのかは、非常に気になるところである。